僕たちは、多様性について語る言葉を持つのか

noteの5月のお題は「#多様性を考える」だという。
様々な場面で、多様性が叫ばれて久しい。女性(男性)や、セクシュアル・マイノリティが生きやすい社会を。人種差別のない世界を目指して。障害のある人々も自分らしくいられるように……多様性が対象とするものは様々だ。
たしかに、どんな分野においても、似たような背景を持つ人ばかりが集まるよりは、多様な者が集まったほうが、よりよいアイディアが出たりして、その分野は発展するに違いない。一方で、様々な人が集まれば、その分、考えねばならないことも増えることになるだろう。

ところで、僕はこの問いを立てたいと思う。
「多様性」とはなんだろうか。

通り一遍の説明はできるだろう。セクシュアル・マイノリティに関して言えば、ジェンダーやセクシュアリティは十人十色であり…というふうに。しかし、表層的なものにとどまらず、ほんとうの「多様性」を説明しようとするのは難易度が高い。
僕も、ある種の少数派であるが、たとえ少数者・弱者の当事者であっても、教科書や哲学書の如く、「これが多様性だ」というのはまず無理である。
何かを説明しようと、言葉を出そうとした瞬間に、全てが雲散霧消するのだ。

そして、少数派であっても、社会において素晴らしい振る舞いができるとは限らない。主張していることが全て正しいとは限らない。

僕がインターネットを始めてから、ずいぶんと経つ。その間に、Twitterが発展し、Instagramが登場し、様々なプラットフォームが立ち上がり、インターネットは多くの人にとって身近なものになっただろう。
インターネットで激しい議論(≒炎上)になったことはいくつかあったが、その中にはジェンダー平等やセクシュアル・マイノリティの権利について、障害を持つ人々についてなど、多様性に関わる話題も少なくなかった。僕が子供の頃には見なかったような強い言葉が飛び交うのを目にするようになった。ただ単に、今まで見えなかったものが見えるようになったのだろう。
炎上はTwitterだけでなく、このプラットフォームでも幾度かあった。社会的弱者にまつわる炎上もあった。

僕にとって、インターネットは半異世界だ。Twitterは雑多な都会もあれば、のどかな田園もある複雑な街。Instagramは巨大な美術館とショッピングモール。Amazonもそんなところか。
noteは一見、おしゃれなビル街に見えるが、そこには21世紀の鬱屈が存在している。ビル街を訪れて文章を眺めれば、今を生きる人々の記録が残されている。
人だけではなく、プラットフォームであっても、「多様性」についてなにがしかの間違いをすることはある。

noteを運営する側が何を考えて「#多様性を考える」という企画を行っているのかはわからない。先の議論に対する反省なのか、それともそうした背景はないのか。

以前、僕は今よりも、「多様性」について、もう少し教科書的な自信を持って語ることができた。なかなかの傲慢である。しかし、少数派であっても間違いを犯すということを知って以来、あまり堂々とは語れない。もしかしたら、僕が何かしら「多様性」について書く資格などないのかもしれない。

「多様性のある社会を…」と目標として「多様性」という言葉を使うのは別段問題はないように感じる。しかし、僕は「多様性とは何か」について、何も言葉を持つことはできない。だから、無闇矢鱈とこの言葉は使わないほうが良いのかもしれない。

自戒を込めて。

風薫る5月。緑色が目に眩しい5月。今日も筆を置く。

5月の「13月の金曜日」は、多様性についてです。ちょうど5月のお題だったので、考えていたことを書きました。

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