作:ミヒャエル・エンデ 訳:大島かおり
イメージ曲「アジアのこの街で(上々颱風)」
1973年に発表されたミヒャエル・エンデの児童文学。イタリア・ローマを思わせる街を舞台に、円形劇場の跡地に住み着いた不思議な少女モモの、時間にまつわる冒険を描く。
作者のエンデは、本を通じて日本に興味を持ったらしく、訳の大島かおりさんによる「あとがき」では、日本を訪れたエピソードが描かれる。2番めに結婚した方は、日本人の翻訳者だったのもあり、相当日本が好きだったのだろう。本作の主人公「モモ(Momo)」も、日本語の「桃」などから来ているかもしれない。
モモには、不思議な才能がある。人の話を聞く才能である。大人が彼女に話をすれば、良い考えがひとりでに浮かんできて、子どもたちが彼女のそばにいれば、自然と想像を使って遊ぶことができる。モモは、親友のベッポやジジを始めとした沢山の人に囲まれて、楽しく暮らしていた。
そんな中、人々の時間を盗む「灰色の男」たちがやってくる。彼らは、「時間貯蓄銀行」を名乗って、大人たちに時間を節約させ、その大人たちに働きかけて子どもたちを学校に閉じ込めてしまう。人々の様子は様変わりし、最終的にはモモは一人ぼっちになってしまう。彼女は人々に時間を配る「マイスター・ホラ」や亀のカシオペイアの力を借りて、灰色の男たちに挑む。
大人たちから時間を奪い、子どもたちから想像力を奪う「灰色の男たち」の正体は、はっきりとはしないが、マイスター・ホラが「人間が、そういうものの発生をゆるす条件をつくりだしているからだよ」と言っている。おそらくは、近代化が男たちを生み出したのだろう。
日本の話をすれば、明治維新から、人々の生活は急激に変わり、それは、終戦後の高度経済成長や、情報通信技術の進化によって、更に加速した。大人たちは、朝から晩まで働き、目の前の生活に必死である。他のことを考える余裕がない人も多い。
子どもたちも同様である。都市部では小学校受験・中学校受験のために、幼いうちから塾に通わねばならない。地方部であっても、中学生になれば、受験戦争に放り込まれることになる。(例外あり)
エンデは、この作品を通じて、警鐘を鳴らしたと思われる。そして、この問題は現在でも解決していないどころか、ますます悪化しているように思われる。
ただ、児童文学でこのようなわかりやすい風刺をするのには、批判の声もある。「思想によって物語がおざなりになっている」という感じである。
ところで、近代化によって奪われた時間を取り戻したとしたら、我々はどのようになるのだろうか。デジタル・デトックスにそのヒントがあるのかもしれないが、僕はその本当の姿をまだ、知らない。
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