ご存じの方がどれくらいいるかはわからないが、6月は、日本では唯一祝日がない月である。
そんな6月には、様々な〇〇月間が存在する。
今回はその中の一つ、「環境月間」を取り上げ、環境について、僕が思っていることを書いていきたい。
環境月間について、環境省の公式サイトを覗くと、次のように書いてある。
なるほど、SNSなどで環境問題や取り組みについて拡散し、興味関心を広げていくらしい。
僕は昔から、環境問題について、関心を寄せてきた。特に関心があるのは、地球温暖化(+異常気象)、海洋プラスチックごみ問題、(環境問題と直接は関係しないが)捕鯨問題、熱帯雨林・マングローブ林問題である。
興味を持った理由には、道徳的なものもあるが、むしろ、純粋に科学的な興味や「サンゴ礁、きれいだな」という感動のほうが大きいだろう。
2015年、国際連合で「持続可能な開発目標(SDGs)」がMDGsの続編として採択された。「誰も取り残さない」をモットーとしたSDGsはその後、公的機関や企業で、様々な行動の基準となっている。
SDGsという言葉は学生にも定着しているらしく、ある学校の推薦入試では、意識の高い生徒ほど「SDGsが…」とお題目のようにアピールしているという。
https://togetter.com/li/1827757
僕自身、SDGsに取り組むことは、環境問題の改善などの点で大変重要だと思っている。(少なくとも、数年前までは盲目的に信じていたと思う。)
しかし、同時に僕は疑問に思っていることがある。
僕たちは、なんのために、環境問題に取り組む必要があるのだろうか?
環境問題への取り組みの始まりは、公害である。日本であれば、水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病、新潟水俣病といった四大公害病、海外にも目を向ければDDTの問題がそれである。(レイチェル・カーソンの「沈黙の春」など)
これらは人間や動物の健康に大きく関わるため、規制を設けるなどして問題に取り組まねばならなかった。
やがて、環境問題の取り組みは、地球温暖化など広範なものにも広がり現在に至る。
現在、環境問題・SDGsに取り組む理由としては、以下のようなものが上げられるだろう。(金銭など実際の価値は除く)
「これまで人間は好き放題開発をしてきたが、そのせいで、環境問題が発生し、経済的な格差が広がってしまった。このままでは、人間は破滅的な最期を迎えてしまうかもしれない。誰も取り残さず、皆で発展していくためには、持続可能な開発が必要なのである。そのために、SDGsに取り組むのである。」
ごもっともな理由である。21世紀の人類としては、まっとうで、すばらしい回答だと思う。
一方で、僕は、このように疑問を投げかけるかもしれない。
「なるほど、環境問題も経済問題も解決すべきものなのだろう。しかし、環境問題などを解決する理由として、人類はなぜ発展する必要があるのだろうか?発展すると幸福になるのだろうか?幸福とはなんだろうか?」
環境問題について考えるとき、僕はこんな事を考えてしまう。21世紀の人類としては失格である。
おそらく、この疑問は「生命とは何か」「僕たちはなぜ生きるのか」といった別の疑問にもつながっていくのだろう。(環境倫理学・環境哲学・・・)
いずれも、生きているうちにはっきりとした答えを出すことができない問題だ。人間は、そこまで賢くない。
そんなもやもやを抱えながら、僕は今日も、ゴミを分別する。
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