以前、僕は、別のブログで、「宮沢賢治の地学読本」という本の感想を書いたのですが、今回は、そのことについて、少し掘り下げていこうと思います。いつも以上にとりとめのない話になるので、ご注意ください。
https://soyogo21.vivaldi.net/2022/01/10/90/
上のリンクがその感想文です。記事を読んでいなくても、わかるようには書きますが、読んでくださったほうがわかることもあるかもしれません。
好きなものは、地学
皆さんは、「地学」と聞いて、どのようなことを思い浮かべるだろうか。その答えは実に様々だろう。
地質、海洋、気象、天文…という地学で扱う各分野を思い浮かべる人。
災害・防災と結びつける人。
環境問題を考える人。
(主に)大学受験に関わる人は、「共通テスト(センター試験)で受ける人が少ないあれ」だと思うかもしれない。
僕は、理科好きな人間であるが、もちろん、地学も好きである。
橄欖石、石英などの鉱物、大昔から続く海の生命の営み、日々の天気や、気候変動を司るシステム、はるか遠くの銀河の美しさには、度々ハッとさせられる。(なお、僕はビジュアル重視である。)
残念なことに、高校地学に関しては、学ぶ人はあまり多くない。それ以前に、学べる場所もあまり多くない。高校理科の中でも、物理・化学・生物に関しては、開講している学校も多いのだが、地学を開講している学校は割と少ないのである。これは、高校地学が、物理・化学・生物を横断するような内容であり、地学の基礎となるそれらの科目のほうが大切だ、と考える人がそれなりにいることも理由の一つかもしれない。
ただ、上に挙げたイメージの通り、地学は、環境問題や防災と密接に関わる分野である。
例えば、様々な地質や地形を知ることで、災害がより起こりやすい場所があることがわかる。海のことを知ることで、海洋プラスチックごみや捕鯨問題(これは環境問題とは少し違うが)を身近に感じることができる。
また、これは僕の意見になるが、地学は、「理科の楽しさ」を感じやすい科目だと思う。
小学校・中学校・高校で地学を学んだ人も、そうでない人も、そして、これから学んでいく人も、ぜひ、あらましだけでも学んでほしいと願っている。
「科学と祈りの狭間」にて
さて、ここからは少し話題を変えたい。
暗黒の中世~ルネサンス~近代と時代が進むに連れ、人類は科学を発展させ、失敗を重ねながらも、我々に様々な恩恵をもたらした。
一方で、科学が発展するにつれ、研究はますますタコツボ化していった。今では、比較的近いと思われる分野であっても、少し研究対象が違うと、なかなか内容を理解するのが難しいという。
つまり、全体像を捉えるのが大変になりつつある、ということである。ある分野を研究している人が全く別の分野の話を聞いたとき、理屈としてはわかっていても、まるで「魔法」のように感じることもあるかもしれない。
ところで、研究云々とは話が逸れるが、科学の時代、と言う一方で、世の中には、今の時代が共感を重視する「魔法の時代」だ、と主張する人もいる。
https://rad-it21.com/ai/kuniomi-shibata_20201001/
我々の生活は、論理を重視する科学が存在する一方で、「魔法」も混ざり合っている場所にあるのではないか。
また、科学と魔法は必ずしも相容れないものではないのではないか。どこかで溶け合うものではないのか。
そして、そのような場所にある文学も有るのではないか。
僕はそのように感じている。
宮沢賢治は、地学教員である一方、「銀河鉄道の夜」などの幻想的な文学も生み出した。
今の時代においても、そのような作品を作り出す表現者がいるだろうか。僕が知らないだけで、きっといることだろう。
「科学と祈りの狭間」にあるものを、僕はまだ知ることができない。時間がかかっても良い。僕は、そんな場所にある文学(文学でなくてもよいのかもしれないが)をいつの日か、作り出したいと思う。
※「科学と祈りの狭間」という言葉は、平沢進の曲「フローズン・ビーチ」から。お気に入りの言葉の一つ。
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